正しさと構造論の対立はなぜ起きるのか
SNSやニュースのコメント欄で、しばしば見かける光景がある。誰かが社会問題について「制度の問題」「構造的な背景」を語り始めると、「それは言い訳だ」「結局は個人の責任でしょ」と反発する声が上がる。
この反発は、単なる意見の違いではない。「正しさ」を主張する人と「構造」を語る人の間には、思考の枠組みそのものに根本的な断絶がある。
なぜ、正しさを主張する人ほど、構造の話を嫌がるのか。この問いには、人間の心理と社会認識の構造が深く関わっている。
「正しさ」が持つ心理的機能と構造認識の相克
正しさを主張することは、単に意見を述べることではない。それは自分自身のアイデンティティと道徳的な立ち位置を確認する行為でもある。
「私はこれを間違っていると思う」という主張は、裏を返せば「私はそれをしない正しい人間だ」という自己定義でもある。この自己定義が、構造認識と対立する。
構造の話は、個人の意思や道徳心とは別の次元で、社会現象が起きることを示す。貧困、差別、格差、犯罪——これらの問題は、個人の善意や努力だけでは解決しない構造的な要因を持っている。
しかし、構造を認めることは、「正しい私」と「間違った相手」という明快な対立図式を崩す。構造の話は、悪人を特定できない。制度の不備、歴史的経緯、経済的制約——こうした要因を語ることは、個人の道徳的責任を相対化する。
そして、この相対化が、正しさを主張する人にとっては「逃げ」や「言い訳」に見える。
構造を認めることで失われるもの——道徳的優位性の崩壊
構造の話を嫌がる背景には、もう一つの重要な要素がある。それは「道徳的優位性」の喪失だ。
正しさを主張する人は、自分が道徳的に優位な立場にいることを前提にしている。間違った行動をする人を批判できるのは、自分がそれをしないからだ。この構図が、自分の存在意義や自尊心を支えている。
しかし、構造の話は、この優位性を揺るがす。
たとえば、「貧困は自己責任だ」と主張する人に、「貧困は教育機会の格差や経済政策の問題でもある」と返すことは、単なる反論ではない。それは「あなたが貧困でないのは、あなたが正しいからではなく、たまたま恵まれた環境にいたからかもしれない」という可能性を示唆する。
この示唆は、道徳的優位性を「運」や「環境」に置き換える。自分の立場が努力や正しさの結果ではなく、構造的な偶然に過ぎないとしたら、自分の正しさに何の意味があるのか。
構造を認めることは、自分の道徳的立場を揺るがす。だから、正しさを主張する人ほど、構造の話を嫌がる。
具体例——正しさ vs 構造論の対立シーン
ケース1:犯罪報道へのコメント
ニュース記事で凶悪犯罪が報じられると、コメント欄には「厳罰化すべき」「こんな人間は許せない」という声が並ぶ。これは正しさの主張だ。
そこに「犯罪の背景には貧困や虐待の連鎖がある」「刑罰よりも予防のための社会政策が必要」という構造的な指摘が入る。
すると、「犯罪者を擁護するのか」「被害者の気持ちを考えないのか」という反発が起きる。構造の話は、加害者への怒りを薄めるものとして拒絶される。
ケース2:格差問題への議論
「努力すれば誰でも成功できる」という主張は、努力を重視する人にとっての正しさだ。
これに対して「教育格差や地域格差が機会を奪っている」という構造的な指摘がなされると、「それは甘え」「結局はやる気の問題」と反論される。
構造を認めることは、自分の成功が努力だけの結果ではないことを認めることになる。だから、構造の話は「言い訳」として退けられる。
ケース3:社会問題への解決策提示
「企業がもっと社会的責任を果たすべき」という正義の主張に対して、「企業は利益を追求する構造の中にいるので、規制や制度設計が必要」という構造論が示される。
すると、「企業の責任逃れを許すのか」と批判される。構造の話は、悪者を免罪するものとして受け取られる。
これらのケースに共通するのは、構造の話が「正しさ」の土台を揺るがすから嫌がられるという構図だ。
正しさと構造認識を両立させるための視点
正しさと構造認識は、本来は対立しない。むしろ、両方を見る視点が、現実的な問題解決には不可欠だ。
個人の責任を問うことも必要だし、構造的な背景を理解することも必要だ。どちらか一方だけでは、問題の全体像は見えない。
しかし、正しさを主張する心理的な動機と、構造を認識する冷静な分析は、頭の中で同時に成立しにくい。
だからこそ、私たちは意識的に視点を切り替える必要がある。
感情として「許せない」と思うことと、分析として「なぜそれが起きたのか」を考えることは、別の思考プロセスだ。正しさを主張したい気持ちを否定する必要はない。ただ、その気持ちとは別の次元で、構造を見る目を持つことができる。
構造を見ることは、悪人を許すことではない。それは、同じ問題が繰り返されないために、何が必要かを考えることだ。
正しさを主張したくなったとき、少し立ち止まって問いかけてみる。「この問題は、個人の道徳だけで解決できるのか」「構造的な要因は本当にないのか」と。
その問いが、正しさと構造認識を両立させる第一歩になる。
正しさを求める心は、人間として自然なものだ。しかし、その心が構造を見えなくさせることもある。
私たちができるのは、正しさと構造の両方を、それぞれの次元で見つめることだ。


