はじめに――私は鳩山由紀夫氏が好きではない
最初に正直に書いておきたい。
私は、好きか嫌いかで言えば鳩山由紀夫氏が嫌いである。
しかし、嫌いという感情だけで、その人物の発言、政策、実績のすべてを否定するのは不公平だとも思っている。
以前の私は、嫌いな政治家や嫌いな勢力について、悪い情報を見れば疑わず受け入れ、良い情報が出れば何か裏があるのではないかと疑っていたかもしれない。
だが、それでは自分が批判している「レッテルで判断する人」と同じになってしまう。
そこで今回、政治家として低く評価されがちな鳩山由紀夫氏について、悪かった点だけでなく、良かった点も含めて評価してみようと呼びかけた。
ただし、最初の投稿では、私自身が鳩山氏を嫌っていることを、あえて書かなかった。
それは立場を隠して鳩山氏を擁護するためではない。先に私の立場を示せば、回答する人の反応を誘導してしまう可能性があるからだ。
鳩山由紀夫という名前と「良い面も評価してみたい」という呼びかけだけを見たとき、どのような反応が自発的に出てくるのか。それを見てみたかったのである。
これは日本全体を測る世論調査ではない
当然ながら、今回の投稿は無作為抽出による世論調査ではない。
投稿を見た人、コメントした人という限られた範囲の反応であり、組織的な投稿や、いわゆるスマホ牧場などの可能性も検証していない。コメントしなかった人が何を考えていたかも分からない。
したがって、今回の結果だけで「日本人全体の何割がレッテル思考に侵されている」などと結論づけることはできないし、そのつもりもない。
これは、一個人が小さく動いたとき、周囲からどのような反応が返ってくるのかを見る、探索的な社会実験である。
小さなコメント欄で起きたことが、そのまま社会全体の割合を示すわけではない。ただし、そこで起きた心理や反応の仕組みが、より大きな規模でも繰り返される可能性は考えられる。
フラクタル理論を厳密な証明として使うことはできないが、「小さな部分に現れた構造が、規模を変えても似た形で現れる」という比喩として考えると、今回の反応は興味深いものだった。
「評価」を求めたのに、返ってきたのは結論だった
今回目立ったのは、具体的な政策や成果を比較した評価よりも、鳩山氏にすでに付けられている否定的なイメージだった。
例えば、次のような反応である。
- 売国奴だから評価できない
- 韓国で土下座した
- 「日本列島は日本人だけのものではない」と発言した
- フリーメーソンと関係がある
- 最後に総理を投げ出した
- 別の政治家の発言や行動を鳩山氏のものとして批判する
これらの中には、実際の発言や出来事を基にしたものもある。しかし、事実の一部を挙げることと、評価理由を説明することは同じではない。
例えば「総理を投げ出したから低評価」というコメントは、結論としては成立する。しかし、なぜそれを最大の低評価とするのかが説明されていない。
約8か月で辞任したこと、普天間基地移設をめぐる約束と現実の間で政権運営を行き詰まらせたこと、連立政権を崩壊させ、問題を十分に収拾できないまま後継政権へ渡したこと。そのうえで「総理には困難な状況でも政策を収拾する継続力が必要だ」と評価基準を示せば、これは正当な批判になる。
ところが「投げ出した」「売国奴」という一語で人物全体を確定させ、その先の検討を止めてしまえば、それは評価というよりレッテルに近づく。
私は今回、次の違いを強く感じた。
レッテルは、説明を終わらせる言葉。
正当な批判は、説明を始める言葉。
事実を訂正しても、結論だけが残る
さらに興味深かったのは、事実誤認を訂正した後の反応である。
別人の発言だったと分かれば、その批判については取り下げる。それが通常の検証だと思う。
しかし、ある批判材料が誤りだと示されると、「でも土下座した」「でもフリーメーソンだ」「でも総理を投げ出した」と、次の否定材料へ移動する反応も見られた。
この場合、事実を積み上げて結論を出しているのではない可能性がある。
先に「鳩山由紀夫は悪人でなければならない」という結論があり、その結論を守るために理由を探している。理由の一つが崩れても、結論を変えるのではなく、別の理由に乗り換えるのである。
もちろん、本人の内面まで断定することはできない。だが少なくとも、議論の形としては「事実から結論へ」ではなく、「結論から都合の良い事実へ」という逆転が起きていた。
冷静に評価する人まで「敵」にされる
もう一つ印象的だったのは、嫌われている人物を冷静に検証しようとする人まで、鳩山氏の支持者、反逆者、売国奴などと分類しようとする反応だった。
鳩山氏のすべてを肯定しているわけではない。良い点と悪い点を分けようとしているだけである。それでも「悪人の一部を評価する者は、悪人の仲間だ」と捉えられてしまう。
意見が本人のアイデンティティや所属意識と強く結び付くと、反対意見は単なる情報ではなく、「自分の正しさを否定する攻撃」に感じられることがある。
その結果、議論は「何が事実か」から「お前はどちら側か」に変わる。
- 自分たちは正義である
- 相手は悪である
- 相手の言い分を理解しようとする者も裏切り者である
- 妥協や部分的評価は敗北である
この構造は、政治だけでなく、人間同士や国家同士の争いにもつながる。相手の言い分に一部でも正しい点があると認めることが、自分の敗北に感じられるからだ。
過激なレッテルに「いいね」が集まった
残念ながら、今回のコメント欄では、冷静な分析よりも過激なレッテルの方に「いいね」が集まっていた。
この結果だけで、その意見が社会の多数派だとは言えない。「いいね」は賛成だけでなく、共感、仲間意識、感情の表明など、複数の意味を持つからである。
しかし、少なくとも今回のコメント空間では、過激な表現の方が可視化され、報酬を得やすかったとは言える。
これは私の投稿だけに限らない可能性がある。政治的な外集団を指す言葉が、SNSでの共有を強く予測したという研究や、道徳的・感情的な言葉が政治的メッセージの拡散に関係したという研究もある。
つまりSNSでは、丁寧に条件を分けた意見よりも、敵味方が明確で、怒りや正義感を刺激する言葉の方が広がりやすい構造がある。
少数の過激な声が「世論」に見える危険
過激な言葉が目立つことの問題は、単にコメント欄の雰囲気が悪くなることだけではない。
「鳩山氏の一部を評価したら、自分まで売国奴扱いされるかもしれない」と感じた人は、反論や穏当な意見を書くことを避けるかもしれない。
すると、実際には少数の過激な人であっても、その意見だけが可視化される。
過激な意見に「いいね」が集まり、上位に表示される。それを見た人が「これが多数派なのだろう」と感じ、さらに沈黙する。結果として、表示上の多数派が社会の常識のように見えてくる。
これは法律によって発言を禁じる正式な言論弾圧とは区別する必要がある。しかし、非難や仲間外れを恐れて人が発言を控えるという意味では、事実上の萎縮や抑圧につながり得る。
自分の意見が少数派だと感じる人ほど発言を控える「沈黙の螺旋」は、SNS上でも起こり得ると報告されている。
少数の過激な声が、多数の沈黙によって「世論」に見える。この可能性は軽視できない。
情報操作は「命令」しなくても成立する
誰か一人の巨大な司令塔が、すべての発言を操作していると断定する必要はない。
政治家や政党が都合の良い場面を切り取り、メディアが分かりやすい失言や対立を強調し、SNSの仕組みが反応の強い投稿を広げ、利用者が自分の陣営に都合の良い情報を共有する。
この循環だけでも、人物は政策や実績ではなく、短いキャッチコピーで判断されるようになる。
操作する側にとって最も都合が良いのは、国民一人ひとりに結論を命令することではない。
「考えるための材料」ではなく「嫌うための言葉」を繰り返し与えれば、人々が自発的にレッテルを広げ、違う意見を持つ人を攻撃してくれる。
ただし、「情報操作に騙されている人たちは愚かだ」と決めつければ、それもまた新しいレッテルになる。私自身も例外ではない。
私自身もレッテルを貼る側になり得る
今回の企画で最も大切なのは、コメントした人を笑ったり、日本人全体を貶めたりすることではない。
私も以前は、嫌いな政治家について、自分に都合の良い悪い情報を簡単に信じていたかもしれない。今後も、知らないうちに同じことをする可能性がある。
「自分はレッテルを貼らない人間だ」と思い込めば、今度はレッテルを貼る人たちに対して「思考停止した愚かな人間」というレッテルを貼ってしまう。
人間から偏りを完全になくすことは難しい。
大切なのは、自分には偏りがあると認め、判断の途中で立ち止まり、必要なら評価を更新することだと思う。
今回、私は鳩山氏が嫌いでありながら、良い点があれば認め、悪い点は具体的に批判し、誤情報は誤情報として除外しようとした。
これは鳩山氏を擁護するためではない。自分自身が、好き嫌いと事実を分けて考えられるかを確かめるためである。
レッテルか正当な批判かを確認する五つの質問
政治家や出来事を評価するとき、私は次の五つを自分に問いかけたい。
- 反対の証拠が出たとき、評価を修正できるか
- 好きな政治家にも嫌いな政治家にも、同じ評価基準を適用できるか
- 人物全体と、個別の発言・政策・行動を分けているか
- 結論だけでなく、根拠と因果関係を説明できるか
- 分からないことを「分からない」「確認できない」と言えるか
この問いに答えられないとき、私は正当な批判をしているのではなく、与えられた印象を再生しているだけかもしれない。
おわりに――嫌いな人物だからこそ、公平に評価したい
今回の小さな実験で、日本人全体について結論を出すことはできない。
しかし、今回のコメント欄では、冷静な評価より先に否定的な結論が置かれ、過激なレッテルほど「いいね」を得やすい場面が確認できた。
そして、嫌われている人物を冷静に評価しようとする行為まで、敵側への加担と見なされることがあった。
だからこそ、私は自分自身にも問い続けたい。
私は事実を見て評価しているのか。
それとも、先に好き嫌いがあり、その結論を守る材料だけを探しているのか。
鳩山由紀夫氏を高く評価する必要はない。調べた結果、低評価になることも当然ある。
ただし、誰かから渡されたレッテルではなく、自分の言葉、自分の基準、自分で確認した事実によって評価したい。
嫌いな人物についても、良い面は良い、悪い面は悪いと言えるか。
これは鳩山由紀夫氏だけを試した企画ではない。
私自身、そしてこの投稿に触れた一人ひとりの思考を確かめるための、小さな実験だったのである。

